
った我が子から初めて、「お母さん」と呼ばれた喜びは生涯忘れることはできません。
恭正はこうして三年間、寄宿舎生活をしましたが、四年生から中学部卒業まで家から通いました。この問、運動会に学芸会、そして修学旅行とたくさんの思い出と、多くの友だちもでき、中学部卒業のときには、口話法も読み書きも親子の対話には不自由しないまでになりました。
これまでになるには、先生方の肌と肌のふれ合いのなかでの教育は、勉強だけでなく心の豊かな子供へと成長させて頂いたのです。普通の学校では見ることのできない先生の慈愛は、ちょうど一幅の名画を見るような光景で、私は何度も見てまいりました。その度に、感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。
恭正は中学部を卒業すると高等部は理容科へすすみました。当時は各学校に高等部があっても職業課程が一つか二つしかありませんでした。このころ北海道にも総合された高等部をつくろうとの運動が起こり、小樽の最良の地に北海道高等ろう学校が開校されました。恭正も三年生の一年だけ、この学校に籍を置くことができたのです。
そのなかで、生徒会の会長もさせてもらいました。高等部ともなると難しい年ごろで、いたずらが流行って恭正も随分悩みましたが、先生方に助けられて無事にお役目を果たしたようです。これらのことが将来、社会に巣立ってから血肉になったと思います。
こうして多感な青春時代を学校で体験し、第一回卒業生として、代表で答辞を読ませて頂きました。我が子の成長した姿に、感慨無量の思いが込み上げました。
四十三年、恭正。は理容の先生の紹介で、札幌市内の理容店に勤めることになりました。夫婦
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